生きることの贈与~もののけ姫
noteに書いた記事より。
もののけ姫を鑑賞した。
多くの人が指摘しているように、この作品では様々なテーマが扱われている。自然と人間、女性、ハンセン病など。
でも、やはり一番のテーマは「生きる」ことそのものに尽きると思う。
作品冒頭で、アシタカはカヤから「いつまでもお慕い申し上げます」と小刀を受け取る。呪いがやがてアシタカの命を奪うことが明らかであるなか、カヤはアシタカにどうか生きてほしいと願った。
作品の後半でアシタカはカヤからもらった小刀をサンに届ける。ここでは、サンに生きてほしいというアシタカの願いがこめられている。
生きてほしいという願いの贈与は双方向の形をとっていない。つまり、返済を期待してはいない。カヤ→アシタカ→サンと流れは一方通行だ。アシタカから生の贈与を受け取ったサンはアシタカとともにたたら場で暮らすことは否定し、森で生きることを選ぶ。彼女にとっては森こそが生きてほしいと願った存在なのだろう。
贈与を受け取ったものは、新たに贈与する立場へ転化する。たたら場の患者はアシタカの呪われた右腕がエボシを殺そうとしたとき、次のようにアシタカを制止する。
「お若い方、わたしも呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよくわかる。わかるがどうかその人を殺さないでおくれ。その人はわしらを人として扱ってくださった、たった一人の人だ。わしらの病を恐れず、わしの腐った肉を洗い布を巻いてくれた。生きることはまとこに苦しく辛い。世を呪い人を呪い、それでも生きたい。どうか愚かなわしに免じて・・・」
ここでは助けられる存在としての患者がエボシを救うために必死にアシタカを説得する様子が描かれている。
エボシによって引き取られた、売られた女性たちもまた、たたら場のために命を懸けて戦う様子が描かれている。
たたら場が首を失ったシシガミによって破壊され、もうおしまいだと生きる意味を失いかけた夫六甲にトキは「生きてりゃなんとかなる」と力強く声をかける。
誰かによって生かされたからこそ、誰かを生かしたい。そうした生の贈与が作中ではしばしば描かれている。そうした命の贈与を象徴する存在としてシシガミは位置付けられているのだろう。
もののけ姫のキャッチコピーは「生きろ。」だ。
さまざまな過程を経てキャッチコピーがこの台詞にたどり着いたのにもなかば必然だったのかもしれない。「生きる」ではなく、「生きろ」と他者に向けられたこの言葉自体がまさに作中での贈与の関係を表している。
たたら場の患者が言ったように、生きることは苦しい。それでも「生きたい」し、「生きてりゃなんとかなる」。
自分はどこかで生かされたからこそ、誰かのために生きる。そうした命の贈与の物語としてもののけ姫は今も人々に受け継がれている。
相撲と夏目漱石、そしてニーチェ
以前、NHKの番組「100分 de 名著 」を見た。吉本隆明の『共同幻想論』を扱う回だった。その番組の中で夏目漱石の回想(『思い出す事など』)が紹介されていた。
力を商にする相撲が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経たたないうちに、恐るべき波を上下に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条となく背中を流れ出す。
(中略)
自活の計はかりごとに追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾らは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々自己と世間との間に、互殺の平和を見出だそうとつとめつつある。戸外に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの中うちに殺伐の気に充ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院のそれのように、一分足いっぷんたらずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に想い至るならば、我等は神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる」
両者が組み合って動かない相撲は一見平和に見えるが、実際には両者が必死の思いでぶつかっている。この夏目漱石の相撲の描写に、吉本隆明は人間の人生そのものを見たという。日常の生活というのは一見、何事も起きていないような日々の繰り返しに過ぎないように思える。しかしその生活の裏には人々の必死の営みがあるというのだ。本当は必死なのに何事も起きない、そうした状況は相撲ではせいぜい数十秒だが、人生とはそれとは比べようもないほど長い。
「我等は神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる」
漱石はそう言っている。
仏教において一切皆苦ということばがあるように、生きるとは苦しみに他ならない。そのことを思うと、生きることは苦しむことに他ならないのに、なぜそれでも私たちは生きているのか、不思議な感じがする。
ましてやこの世界には何も意味などなく、この人生が繰り返されるとしたら?
ドイツの哲学者ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で次のように述べている。
「これが生だったのか、それではもう一度!」
漱石がどのようにニーチェの影響を受けたのか(あるいは受けていないのか)はわからないが、両者の生への考え方はかなり異なっているように思う。どちらの考えが優れているかといった問いは野暮だろう。
ただ、漱石の考えを見た後にニーチェの考えを改めてみると、ニーチェの思想が持つエネルギーを感じずにはいられない。
傍らにいるということ
孔子の言行録は『論語』にまとめられており、彼の説いた思想はのちに儒教、やがて朱子学として発展していく。彼の思想は簡単にいうならば、「仁」や「礼」を為政者が身につけることで国を治めることができるようになるというものだ。
今では儒教=古くさい教えといったイメージがあるかもしれない。
日本での孔子の影響について振り返ってみると、福沢諭吉など幕末から活躍した人々にとっては儒教的な価値観から脱却して西洋的な合理的な考えを身につけることが喫緊の課題であった。彼らにとって朱子学(儒教)=旧態依然の教えであり、それは乗り越えられるべきものであった。
しかし、私たちは完全に儒教的な価値観を失ってはいない。目上の人への礼儀、敬語、年功序列などがそうだ。そうした価値観は私たちを拘束する教えであり、より合理的な社会のためには捨て去るべきものとされがちだ。
アメリカでは上司と部下の関係がオフィスを出るとフラットになる、それこそがあるべき人間関係なのだといった話がしばしば日本社会のあり方を批判するなかで取り上げられる。丸山真男の『日本の思想』のなか「『である』ことと『する』こと」でもそうした話が展開されていた(気がする)。
そうして私たちは孔子に対して礼儀にうるさいとか、保守的とか、権威主義的とか勝手なイメージを作り上げていく。しかし、『論語』を実際に読んでみるとそこでは人間味あふれる孔子が描かれている。
こんなエピソードがある。伯牛という弟子が病になったとき、孔子が窓から彼の手を取って悲しむというものだ。孔子は「おしまいだ。運命だねえ。こんな人でも病気にかかろうとは、こんな人でも病気にかかろうとは」と嘆く。
注目してほしいのは孔子が伯牛の手を取ったという部分だ。この箇所を読む私たちは、孔子が伯牛の手を触れたときの温度感を考えずにはいられない。そして弟子が病になったことに対して感情を隠さず表現するその様。そこには儒教の創始者としてではなく、病に苦しむ弟子の傍らにいる一人の人間として孔子が描かれている。
この箇所を読んで初めて、孔子が述べた仁という言葉の深さに触れることができた気がする。手と手が触れ合う時の温度感。死に瀕した人の傍らにいる時間の流れ。人と人が時と場を共にするこの感覚が、現代の社会ではどんどん捨象されている気がする。
オンライン会議やテレワークでは人と人との温度感を共有するのが難しい。もちろんそのようなことをしなくても「合理的に」仕事は進められる。しかし、そうした方向性を極限まで進めていったとき、果たして「人間」が働く意義は一体どのようなものになるのだろうか。そこでの人間とはどのような存在であるのだろうか。そうした問いを孔子は2500年前の地平線から私たちに投げかけているのかもしれない。
大乗仏教と平等という概念について
奈良時代の仏教は鎮護国家を目標としていたが、やがて政治と深い関係を持つようになった。その結果、桓武天皇は平城京を捨て都を移している。
最澄は唐に渡って学んだあと、日本で大乗仏教の戒壇の設立に尽力した。
最澄が日本に広めた天台宗の考え方によると、どんな者でも成仏することができる。法相宗の徳一はこれに反対して以下のような立場に立った。
「法相宗は……有情の悟りの可能性に先天的な『差別』を認める。衆生が悟れるか否かは、本性の違いで先天的に決定されており、声聞、縁覚、菩薩、そして声聞にも大乗にも至れるもの、まったく仏になる可能性のないものという差別があるとする」(83頁)
今風にいうのであれば、身の丈に合った救済の可能性があるといったところだろうか。それとも、現代では「遺伝的」という言葉に置き換えられただけなのだろうか。
法相宗の反論に対して最澄はどう考えたのか。先にも書いたように、彼は衆生がみな仏となりうる、本来衆生は仏であるというのが釈迦の教えであると述べた。悟りへの道は平等であるというわけだ。
日本に近代的な人権思想、当時の天賦人権論を紹介したのは福沢諭吉とされている。人権という概念は身分に関係なく、平等に適用されるというのは当時の社会にとって斬新だったのだろう。
だが、福沢諭吉が生まれるよりもはるか前に、平等性という考え方は日本にももたらされていた。
確かに、その後の日本は封建社会となり、身分制度が根付いていった。現代と比べると不平等な社会だったのだろう。
しかし、それは日本では近代的な人権思想や平等といった概念が根付かないことの説明にはならない。古代の日本においても基本的人権につながり得る思想がもたらされていたからだ。平等という概念が持つ普遍性を改めて確認しておきたい。
清水正之『日本思想全史』(筑摩書房、2014年)、76‐84頁
日本と仏教受容
日本に仏教が伝来したのはいつだろうか。確定した年代はないとされている。ともかく、6世紀ごろ、仏教は朝鮮半島の百済から来た渡来人によってもたらされた。
伝来初期、新しい宗教思想を取り入れるかどうかで崇仏派の蘇我氏と排仏派の物延氏が対立した。蘇我氏が勝利し、その後仏教はを鎮護国家のために利用されていった。
ここで大切なのは、「伝来した仏教が、異国から到来した当時の最新の文明であった」(65頁)点である。
日本よりも進んだ国としての中国。そこで最新の思想を学ぶために、例えば最澄や空海などはまさに命がけで海を渡っていった。幕末から明治にかけて、西洋の学問が最先端のものとして扱われたのと同じ構図が仏教にも当てはまる。
結果的に、仏教は日本の社会に浸透していった。
『古事記』や『日本書紀』にみられるような価値観、例えば集団的秩序を乱す行為を「天つ罪」として扱う一方で、それらの穢れは祓えによって元に戻るとする考え方とは明らかに異なる価値観が浸透していったのである。前世からの因果、悪行に対する報いなどの考え方がまさにその代表である。
仏教が人々の生活に根付いていく一方で、仏教が外来のものであるという感覚もどこかで残り続けた。
「仏教全盛期のときは表面化しなかったが、深いところで外来のものであるという意識を残し続け、近世に至って国学の反仏教論に、また明治初期の廃仏毀釈という宗教政策に影響を与えたことは記憶されるべきであろう」(66頁)
宗教意識がないといわれる日本。これから先、日本において仏教はどのような形であり続けるのだろうか。
参考 清水 正之『日本思想全史』(筑摩書房、2014年)
アマルティア・センの講演
アマルティア・セン(1935-)はインド生まれの経済学者として知られている。
彼は不平等をめぐる議論において、単なるモノ=財の分配が問題なのではなく、財を用いて自身が望むことを達成できる能力=ケイパビリティ(潜在能力)こそが問題であると主張した。SDGsの先駆者ともいえる人物である。
『貧困の克服 ―—アジア発展の鍵は何か』は彼が行った4つの講演をまとめたものである。経済や政治、人権、公共政策についてがテーマとなっている。
以下、重要と思われた点を整理しておく。
①「危機を超えて――アジアのための発展戦略――」
・アジアの経済発展を学ぶケーススタディとしての日本
⇒明治維新における基礎教育。教育の効果は生活の向上にとどまらず、経済の発展に影響を与えた。
※教育による人間的発展が結果的に経済発展につながる
・アジア経済危機の教訓
⇒経済が急成長するときは、さまざまな社会集団が利益の恩恵を享受するが、経済が下降するときには分裂が生じる
例:飢饉では社会の下層に位置する人々ほど影響を受ける
※GDPの平均といった数字の集計の分析だけではその事態は見えてこない
「インドネシア経済危機の犠牲者たちは、景気が上昇気流に乗っていた時には、民主主義に対してそれほど強い関心は抱いていなかったかもしれません。しかし、一部の人々が真っ逆さまに転落した時、民主主義的な制度が欠落していたためにその人たちの声は抑えられ、黙殺されました。民主主義がもたらす保護的な安全保障はそれが最も必要とされるときに、その欠如が人々に強く意識されるものなのです」(53-54頁)
②「人権とアジア的価値」
センは主に2つの点について反論している。
・民主主義において重要な概念である自由や寛容という考え方は、西欧には当てはまるがアジアにはなじまないという主張について。
⇒センはアショーカ王(古代インドマウリヤ朝の王、仏教に帰依した)の寛容についての考え方、アクバル大帝(ムガル帝国の皇帝、ムスリム)の、ヒンドゥー教に対する寛容さを挙げて反論している。
・経済発展のためには民主主義ではなく、中国やシンガポールなどの権威主義体制のほうが向いているという主張について。
⇒アフリカのボツワナを例に挙げて反論。
「市場システムが生み出す経済的インセンティヴだけに集中して、民主主義制度によって保障される政治的インセンティヴのほうを無視すると、非常に不安定な基本原則を選択することになります」(68頁)
③「普遍的価値としての民主主義」
・20世紀に起こった最も重要な出来事は何であるか?
⇒センは民主主義の台頭であると答えている。民主主義は、19世紀に主張されたようなヨーロッパにだけ適したものではなく、民主主義が普遍的な価値を持っているとセンは主張している。
・民主主義が普遍的価値であるという主張に反論する人がいる=民主主義は普遍的な価値ではない?
⇒「あるものが普遍的な価値を持つとみなされるために、すべての人々による普遍的な合意は必要ではない」(123頁)
センは例として2つの人物を取り上げている。
まず、ガンジーの非暴力について。
「マハトマ・ガンジーが非暴力の普遍的な価値について論じた時にも、世界中の人々がこの勝ちに従って、すでに行動しているといったのではありませんでした。そうではなくてむしろ、非暴力にはそれを普遍的な価値であるとみなすのにふさわしい理由があると、ガンジーは主張したのでした」(123頁)
続けて、詩人タゴールについて。
「詩人ラビンドラナート・タゴールが『心の自由』を普遍的な価値として論じたことについても同様にあてはまります。タゴールは、この主張がすべての人によってすでに受け入れられているというようにではなく、すべての人に受け入れられるべき十分な理由があると言ったのでした」(124頁)
民主主義も同様であるということだろう。
単なる経済発展だけでは不十分であり、すべての人の人権が尊重される体制としての民主主義が重要なのだ。中国の大躍進、スターリン体制下のソ連がなぜ間違いなのか。それは以下の言葉に集約されるだろう。
「発展とは、一人あたりのGNP(国民総生産)だけではなく、人間の自由と尊厳がもっと拡大されることにもかかわっているのです」(144頁)