相撲と夏目漱石、そしてニーチェ

以前、NHKの番組「100分 de 名著 」を見た。吉本隆明の『共同幻想論』を扱う回だった。その番組の中で夏目漱石の回想(『思い出す事など』)が紹介されていた。

 

力を商にする相撲が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経たたないうちに、恐るべき波を上下に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条となく背中を流れ出す。
 (中略)
 自活の計はかりごとに追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾らは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々自己と世間との間に、互殺の平和を見出だそうとつとめつつある。戸外に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの中うちに殺伐の気に充ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院のそれのように、一分足いっぷんたらずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に想い至るならば、我等は神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる」

 

両者が組み合って動かない相撲は一見平和に見えるが、実際には両者が必死の思いでぶつかっている。この夏目漱石の相撲の描写に、吉本隆明は人間の人生そのものを見たという。日常の生活というのは一見、何事も起きていないような日々の繰り返しに過ぎないように思える。しかしその生活の裏には人々の必死の営みがあるというのだ。本当は必死なのに何事も起きない、そうした状況は相撲ではせいぜい数十秒だが、人生とはそれとは比べようもないほど長い。

 

「我等は神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる」

漱石はそう言っている。

仏教において一切皆苦ということばがあるように、生きるとは苦しみに他ならない。そのことを思うと、生きることは苦しむことに他ならないのに、なぜそれでも私たちは生きているのか、不思議な感じがする。

ましてやこの世界には何も意味などなく、この人生が繰り返されるとしたら?

ドイツの哲学者ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で次のように述べている。

「これが生だったのか、それではもう一度!」

漱石がどのようにニーチェの影響を受けたのか(あるいは受けていないのか)はわからないが、両者の生への考え方はかなり異なっているように思う。どちらの考えが優れているかといった問いは野暮だろう。

ただ、漱石の考えを見た後にニーチェの考えを改めてみると、ニーチェの思想が持つエネルギーを感じずにはいられない。 

 

思い出す事など 他七篇 (岩波文庫)

思い出す事など 他七篇 (岩波文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 1986/02/17
  • メディア: 文庫
 

 

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