話題の本(『人新世の「資本論」』)

noteに書いたものをこちらにも掲載。

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前から話題になっていた『人新世の「資本論」』。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 何となく気になっていた本であったが、2021年度の新書大賞に選ばれたことで読んでみようと思い購入した。

ざっくり内容を振り返ると要点は以下の通り。

・今の気候変動には資本主義のままでは対応できない(グリーンニューディールなども結局は消費を喚起する)。

・従来の理解とは異なり、晩年のマルクスには脱成長コミュニズムという思想が生まれていた。

・脱成長コミュニズムは清貧とは異なる。水などに代表される共有財(コモン)を民営化ではなく<市民営化>することによって「豊かな」生活は可能。

・脱成長コミュニズムは政治家に任せるだけでなく(つまり上からの改革ではなく)、市民による自治や共同管理が重要となる。

正直、途中のマルクスの理論的発展の部分は内容が込み入り冗長に感じた。一方で従来の資本主義批判ではなぜ駄目なのかの説明はなかなか面白く、緊張感を持って読み進めることができた。筆者は広井良典スティグリッツといった代表的な論者にも遠慮なく切り込んでいく。

 

 どちらの本も読んだことがあっただけに、なるほどと感じる点が多かった。

なぜSDGsでは気候変動に対するアプローチが不十分であるのか。私たちは何をしていけばよいのか。本の冒頭とおわりにそれぞれ方向性が示されている。

新書大賞に選ばれたこの本だが、欲を言えばもう少し読みやすく平易な内容になるといいと思う。本の末尾に3.5%の人が本気で立ち上がると社会変革が起きると説明されていたが、この本だけではその域に達しないと感じる。

100分de名著シリーズのようなものが必要だ。

方向性が斬新でとても説得力があるだけに、ちくまプリマ―新書や岩波ジュニア新書などからもぜひ本を出してほしい。

最後に。筆者の写真が大々的に載っているこのカバーは、実際には外すと普通の集英社新書のデザインになる。二重でカバーが使われていてまったくエコではない。こうした本は読まれないことには始まらないので仕方ないのかとも思うが、筆者はどう感じたのか気になった。

内容的にはとても面白く、おすすめの一冊といえる。ぜひ未読の人は読んでほしい。

 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

マイケル・サンデルの本を読んでみる(『これから「正義」の話をしよう』)

10年前ほど前、NHKハーバード白熱教室という番組が放送されていた。じっくり見ていないのであまり詳細は覚えていないが、大ホールでサンデル教授が大学生たちと討論しながら哲学について学ぶ内容だったと思う。

www2.nhk.or.jp

哲学に関する本はいくつか読んできたものの、サンデルについては何となく池上彰的な雰囲気を感じていて(どちらにも失礼!)、彼の著作を敬遠していた。

 

しかし、いつの間にか彼の本を買っていた。気が付いたらその本は本棚にあった。

 

 経済格差が広がるなか、いま一度「正義」について考えるのはよいことだ。一週間ほどでちまちま読み進めた。

 

本の序盤ではリーマンショックウォール街の人々が取り上げられる。ウォール街への税金の大量投入と役員がもらう巨額のボーナスについて、何が公平なのか問われる。やや脱線的になるが、彼が紹介する当時の話がなかなかに強烈だ。

企業救済の倫理をめぐる最も過激な発言の一つは、アメリカ中部出身の財政保守派、チャールズ・グラズリー上院議員共和党アイオワ州出身)によるものだ。ボーナス論議が最も盛り上がっていたころ、グラスリーはアイオワ州のあるラジオのインタビューで、何よりイライラするのは経営者たちが失敗の責任を取らないことだと語った。「彼らが日本の経営者のようにアメリカ国民の前に姿を見せ、深く頭を下げて『申し訳ありませんでした』と謝り、それから二つのことの一つ――つまり辞職か自殺をすれば、少しは気が収まる」のだそうだ。(33頁)

 

本の前半でサンデルはベンサムらの功利主義を批判的に検討する。有名なトロッコ問題はその文脈で登場する。他に遭難したボートでのカニバリズムや養育権をめぐるベビーM事件など、様々な事例が取り上げられていて前半を読むだけでも十分に面白い。

 

一通り功利主義について確認した後、動機を重視するカントの哲学が取り上げられる。功利主義とカントを対比させた一節を紹介しよう。

カントは、理性の能力だけが人間の能力ではないこともあっさりと認めている。人間には快楽や苦痛を感じる能力もある。カントによれば、人間は理性的な生き物であると同時に、感性的な生き物でもある。カントのいう「感性的」とは、自分の感覚や感情に反応するという意味だ。ベンサムは正しかった。しかし半分だけだ。人間は快楽を好み、苦痛を嫌うという観察は正しかったが、快楽と苦痛が人間を支配している「主権者」だと主張したのは誤りだった。少なくともときには理性が主権者になることもあるとカントは言う。(173-174頁)

カントの道徳哲学については大学時代にある程度触れてきたので、概ねそうだなと感じながら読み進めた。

 

サンデルは功利主義→カント→ロールズの正義論へと論を進める。

彼はロールズの重要なポイントである格差原理について以下の部分を紹介している。

格差原理とは、要するに個人に分配された天賦の才を公共の資産とみなし、この分配がどんなものであれ、それが生み出す利益を分かち合おうという同意を表すものだ。天賦の才に恵まれた者は誰であれ、そのような才を持たない者の状況を改善するという条件のもとでのみ、その港運から利益を得ることができる。天賦の才に恵まれた者は、才能があるという理由だけで利益を得てはならず、訓練や教育にかかったコストをまかない、自分よりも恵まれない人びとを助けるために才能を使うかぎりにおいて、みずからの才能から利益を得ることができる。自分が才能に恵まれ、社会で有利なスタートを切ることのできる場所に生まれたのは、自分にその価値があるからだと言える人はいない。だからといって、こうした違いをなくすべきだというわけでもないやり方は別にある。こうした偶然性が、最も不遇な立場にある人びとの利益になるような形で活かせる仕組みを社会のなかにつくればよいのだ。(249頁)

個人的には、資本主義の大国であるアメリカからロールズの思想が生まれたこと自体に意義があると思う。彼の論の進め方などには様々な批判もあるのだろうが、彼の主張からは、社会を変えていきたいというエネルギーを感じる。今こそ読まれるべき思想だと思う(『正義論』を早く読まないと…文庫化してくれ)。

 

ロールズの正義論を一通り眺めた後、サンデルはアリストテレスについて取り上げる。カントの道徳哲学やロールズの正義論はどのような価値が望ましいのかといった問いには中立的であることを指摘し、ポリスなどのコミュニティと善の関係を探究したアリストテレスに立ち戻る意義をサンデルは論じる。

 

時にコミュニタリアニズムとも呼ばれる(サンデル自身は否定するが)彼の思想では、共同体や連帯といったキーワードが重要となってくる。功利主義批判に続き、自由に基づく理論(リバタリアニズムに加え、ロールズ的な平等主義者など)にも彼は批判的だ。

  自由に基づくそうした理論によれば、われわれの追求する目的の道徳的価値も、われわれが送る生活の意味や意義も、われわれが共有する共通の生の質や特性も、すべては正義の領域を越えたところにあるのだ。

 私には、これは間違っていると思える。正義にかなう社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。せいぎにかなう社会を達成するためには、善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。(407頁)

 本全体を通して徐々に抽象性があがるため、序盤の感触よりも思ったより読み進めるのに時間がかかってしまった。だが、ロールズの正義論に加え、アリストテレスを現代の社会を考察するヒントにするのは面白い。前半部分にはトロッコ問題など豊富な事例が扱われているので、まずはその部分だけでも読んで、興味があれば後半も読んでみてほしい。

読書録『人口減少社会のデザイン』

noteに載せた記事より 

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人口減少社会のデザイン

人口減少社会のデザイン

 

 以前に買った本だが、忙しかったり、他の本を読んだりで後回しになっていた(積読はゆうに50冊を超えている…)。

この著者(広井良典さん)の本はすでにいくつか読んでいて、特に『生命の政治学』が面白かった記憶がある。

今回の本は、人口減少というテーマのもと、今までの本で主張された内容を読みやすくコンパクトに整理したという印象を受けた。

以下いくつか重要だと思った部分を記録しておく。

メモ① 少子化について

少子化というと、直感的には結婚したカップルの子どもの数が減っていると考えがちであるが、実はそうではない。……少子化の原因となっているのは、むしろ結婚そのものに関する状況の変化、すなわち未婚化と晩婚化なのである。(58頁)

そして、著者によれば少子化の原因は「女性の社会進出」ではない。むしろOECD加盟国における女性の就業率と出生率は正の相関がある。つまり、社会のあり方次第で少子化は解決できるのであり、少子化の責任を女性に押し付けるのはお門違いということになる。

メモ② 「地域密着人口」の増加

「地域密着人口」とは、著者によると子どもと高齢者のことを指す。現役世代は都心部への通勤を考えればわかるように、地域とのかかわりが薄い。そうした現役世代のボリュームが減るため、これからは「地域密着人口」に着目する必要があるという。

高度成長期を中心とする戦後の人口増加の時代においては、地域密着人口の割合は確実に減っていた。言い換えれば、それは「地域」というものの存在感がどんどん薄くなっていった時代だったわけである。……いずれにしても、これからの人口減少時代は、”地域で過ごす時間の多い”層が大きく増えていくのであり、地域というもののもつ意味が、いわば人口構造上からも着実に大きくなっていく。(95頁)

メモ③ 「資本主義」と「市場経済」の違い

一見似ていて、ほとんど同義に使われることもある言葉だが、筆者はブローデルの枠組みを紹介し、両者を区別している。

市場経済ないし「マーケット」というのは、例えていえばかつての築地市場の魚市場の”せり”のように、ある意味で非常に透明で公平な競争である。それに対して資本主義は、むしろ力とか独占とか、”富める者がますます富める”といった論理が支配するような性格のものである。(162頁)

そのうえで、筆者自身は資本主義を「市場経済プラス限りない拡大・成長への志向」という点を押さえておく必要があると述べる。成長路線については様々な議論があるが、地球に限界が生じつつあることそれ自体は誰もが念頭に置く必要があるだろう。

メモ④ 日本が低負担・高福祉を実現できていた理由

筆者は「インフォーマルな社会保障」あるいは”見えない社会保障”と呼ぶべきセーフティネットが存在していたと述べる。

「カイシャ」と「家族」、つまり終身雇用を基調とし、加えて(給料の中に扶養手当や住宅手当といったものが含まれるなど)社員とその家族の生活を生涯にわたって保護するような「カイシャ」と、介護や子育て等をしっかりと担う、良くも悪くも標準的な「家族」という存在によって支えられていた。(184-185頁)

そしてそれらが機能しなくなった結果、経済格差が徐々に拡大しているという。実際、所得格差を表す指標ジニ係数で見ると、かつて日本は北欧に次ぐ大陸ヨーロッパと同じあたりに位置していたが、徐々にアメリカやイギリスに近づいているとのことである。

全体を通して

人口減少からコミュニティのあり方、資本主義の分析、社会保障や医療、そして死生観のあり方まで幅広く論じられている。こうした分野に興味がある人はぜひ読んでみてほしい。

ちなみに、最近NHKで放送されている「100分de名著」の『資本論』の内容にも通じるものがあると思う。

番組で解説役を担当している斎藤幸平さんの著書『人新世の「資本論」』(未購入)も今回の本の内容とつながりそうな気がするので、また積読が増えそうだ…。

 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

 

持続可能な医療 (ちくま新書)

持続可能な医療 (ちくま新書)

 

 

 

私たちの社会に正義はあるか

日経平均株価が、年末の株価としては31年ぶりの高値となった。

www3.nhk.or.jp

日銀やアメリカのFRB連邦準備制度理事会などによる大規模な金融緩和や各国政府の経済対策の下支えもあって、厳しさが続く実体経済とかい離する形で株価の上昇が進みました。

その結果、日経平均株価のことしの終値は、去年の年末と比べて3787円55銭、率にして16%上昇し、年末の株価としては1989年以来、31年ぶりの高い水準で取り引きを終えました。

記事の本文では、実体経済との乖離が指摘されている。

実際、私もこのニュースを見たとき、違和感を覚えた。

なぜ株価が上昇するのか? 株価が上がる要素は何か? 報道によると、バイデン政権への期待、ワクチン開発への期待などが主な要素であるとのことだった。株価は将来への期待によって変動するから、現在の株価の上昇は、何も根拠がないわけではないようだ。

 

実際、10~12月期の法人企業景気予測調査によると、中小企業は厳しい状況であるが、大企業では大幅に改善しているようだ。

www.asahi.com

3カ月前と比べた大企業製造業の景況判断指数は21・6(前回は0・1)となり、統計を始めた2004年以降で最大になった。非製造業を含めた全産業も11・6(前回は2・0)で過去3番目の高さ。新型コロナの感染「第3波」が広がるなか、マイナス圏に沈んだままの中小企業との差が際立った。

 結局、1万6000円台まで下がった株価は2万7000円台まで上昇した。大企業の株を保有していた人はコロナ禍でも儲けることができた。

 

これは資本主義社会の仕組みとしては何もおかしなことはない。

株式を買う人がいるからこそ、会社は資金を調達することができる。今更、株で儲けるのはおかしなことだから株式市場をなくす、なんてことはできない。

 

それでも、この社会に対する違和感は拭いきれない。

それは、看護師などのエッセンシャルワーカーの状況が困難を極めているからだ。

www.yomiuri.co.jp

「精神的な負担が大きくなる中、収入は減っている。初めて看護師を辞めたいと思った」

「お金という対価をほしがる自分も嫌になっている。疲れ果てて頑張れなくなってきている」

今の社会は、富が公平に分配されているのだろうか。人間が働くというその営みへの尊厳はあるだろうか。

 

仕事への対価は希少性や需給バランスによって決まる。経済学によればそれが「合理的」というわけだ。でも、合理的な決定が必ずしも公平や公正なものであるとは限らない。

 

私たちの社会に正義はまだあるのだろうか。

www3.nhk.or.jp

借金があり、年老いた両親がいるので、今、帰国したいわけがないのに自分の都合で辞めたとされて、本当に悔しいです。

 

4月の緊急事態宣言下の生活で私たちは、社会が様々な人々の営みによって支えられていることを感じたはずだった。宅配業者、スーパーの店員など、「ステイホーム」できない人々が私たちの生活を支えてくれた。現在、医療従事者は年末の休みも返上で働いている。

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国連本部に展示されている、ノーマン・ロックウェル氏のモザイク画「黄金律」

Do unto others as you would have them do unto you.

自分が他人にしてもらいたいように他の人にしなさい

黄金律に示される利他の精神。この精神が今まさに必要とされている。

 

こうした利他の精神は江戸時代の思想家である石田梅岩も述べている。

まことの商人は先も立ち、われも立つことを思ふなり

(正しい商人とは、相手のためになって喜ばせ、自分も正当な利益を得る者をいう)

2021年、利他の精神が広まることを願っている。

経済学って難しい

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今、経済学の本を読んでいる。『マンキュー 入門経済学』というやつだ。

マンキュー入門経済学 (第2版)

マンキュー入門経済学 (第2版)

 

 何というか、経済学は勉強していて敷居が高く感じる。その理由はいろいろあるのだけど、直感で理解しにくいというのが大きいと思う。

例えば、GDPという概念について。

GDPとは国内で生産された財の価値であると説明される。これは何となくわかる。でも、ここからが難しい。

まず、GDPの値は経済における総所得であるとともに、総支出でもあるという点。誰かの所得になるということは、誰かが支出しているということと同じであると説明される。確かにそうなんだろうが、これも最初はピンとこなかった。

そして、GDPを支出の面から捉えた場合、その内訳は以下のようになる。

①家計による消費
②財やサービスを生産するために将来使用される財の購入としての投資
③政府による公共事業や政府職員への給料としての政府支出に分けられる。※厳密には純輸出を考える必要があるがここでは割愛する

GDPをY、消費をC、投資をI、政府支出をGと表し、閉鎖的で貿易をしないと仮定したある一国のGDP

Y=C+I+G…①と表すことができる。

そして、上の式は両辺からCとGを引くことでY-C-G=I…②となる。

Y-C-Gは何を表すかというと、経済の総所得(Y)から消費(C)と政府支出(G)を引いて残る部分ということで、つまり貯蓄を表す(新たにSと表記される)。

そのため、Y-C-G=S…③となる。

②の式に③を代入すると、S=Iとなる。

つまり、貯蓄=投資となる

確かに、自身が貯蓄をするということは、金融機関である銀行に預金することであるし、銀行は預金をもとに企業に貸し出しをするから、自分の預金は投資に回されることになる。

でも、あなたの貯蓄はGDP上では投資に分類されますと言われてピンとくるだろうか? 

多分、経済学を大学で体系的に学んだ人には、そんなの当たり前じゃないかと思われるのだと思う。でも、初学者にはそれがピンとこないことがある。

ピンとこない部分を丁寧に消化していくことが、経済学という学問を身につけることにつながるのだろうけど、正直独学では厳しいものがあると感じる。大学の一般教養で経済学の講義をとれば良かったなあと思いつつも、本を読み進めています。

 

 

”生きる”という復讐があった~「アウシュビッツ 死者たちの告白」~

最近忙しくてめっきり更新できていません。過去にnoteに書いた以下の記事をこちらにも載せます。今のところ一番読まれている記事です。

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NHKスペシャルアウシュビッツ 死者たちの告白」を見た。

ゾンダーコマンドと呼ばれる、ユダヤ人でありながら虐殺に加担した人々。彼らが残したメモはぼろぼろになって読めない状態であったが、現代の科学技術によってそれらが復元され、様々なことが分かってきた。

強制収容所ナチスに加担したユダヤ人。彼らは当時何を思っていたのか。瓶に入れて地中に埋められていたメモには、彼らの「生き残る」ことへの執着、同胞の殺戮に加担する苦悩、悲しみ、助けを求める悲痛な叫びが記されていた。

自分の妻子がガス室で殺されたことをのちに知った夫。彼はそれに加担して生きていることを激しく恥じた。

ガス室ユダヤ人を送る仕事に就いたある人物。何度も一緒にガス室で死のうと思ったが、「生きる」ことがナチスへの復讐だと思い、生き延びようとしたという。彼は奇跡的にアウシュビッツが解放されるまで生き延び、その後結婚して娘を授かった。彼は死ぬまでアウシュビッツでの出来事を語らなかった。

彼は復讐できたのだろうか。できたとしたら、それは何に対して?

極度の飢えや目を覆うような悲惨を経験せず、微笑んで生きる娘を見て彼は何を思ったのだろうか。世界はそれでも美しいと思えたのだろうか。

彼は戦後、アウシュビッツについて語らなかった。そして語れなかった。ゾンダーコマンドとして生き延びた自身のそれまでの人生は、収容所からの解放で切断されたのだ。いうなれば、ゾンダーコマンドとして生きていた自分は「死者」となった。だから、語る術がないという点ではガス室に送られた人々と変わらない。この番組名は「生き延びた者の告白」ではない。「死者たちの告白」となっているのはそのためだろう。

番組ではゾンダーコマンドの視点での心理描写が続いたが、フランクルは収容所の「囚人」となった立場から『夜と霧』の中で以下のように述べている。

たとえば、収容所の囚人の一定の数を、他の収容所に送る囚人輸送があるということを、われわれが聞いたとする。すると当然のことながら、「ガスの中に入れられる」ということを推測するのである。すなわちその輸送とは病人や弱りはてた人々から、いわゆる「淘汰」が、つまり労働が不能になった囚人の選抜、が行われて、ガスかまど及び火葬場のある中央のアウシュヴィッツ大収容所で殲滅されると考えるのである。この瞬間から、あらゆる人々の、あらゆる人々に対する戦いが燃え上がるのである。各人は自らと、自分に一番近しい者とを守ろうとし、輸送に送るまいとするのである(76-77頁)

ゾンダーコマンドが一枚岩になってナチスに抵抗できなかったように、殺されたユダヤ人たちも一枚岩にはなれなかった。どちらの立場も、”生きる”ことに執着した。

いずれにせよ親衛隊員が誰を「輸送」するか、「選抜」する。そして運ばれてきた人々をゾンダーコマンドたちはひたすらに「処理」した。時にポーランドの諜報部員に情報を内密に渡し、助けがくる日を待ちながら。時に自身もガス室に入ってしまおうと思いながら。

一体どれほど時が長く感じたのだろうか…。

結局、ソ連軍がくるまで助けは来なかった。一日一日、大量の命が奪われていった。

当時の収容所について、ある証言者は、死体が燃やされて煙突から出る黒い煙のことを「魂が燃やされた」と形容していた。事態はまさにその通りであり、アウシュビッツでは人間の尊厳自体が徹底的に破壊されていた

フランクルは先ほどの引用の少し先で以下のように述べている。場面は同じく囚人の輸送について。

親衛隊員によって行われたこの積極的な選抜のほかに、なおいわば消極的な選抜があった。すなわち多年収容所で過ごし、一つの収容所から他の収容所へと、結局は1ダースもの収容所を廻ってきた囚人の中には、この生存のための苦しい闘いにおいて、良心なく、暴力、窃盗、その他不正な手段を平気で用い、それどころか同僚を売ることさえひるまなかった人々がいたのである。(78頁)

過酷な環境はそれほどまでに人の精神を追いつめるのだ。

全く幾多の幸運な偶然、あるいは――そう呼びたいならば――神の奇蹟によって、生命を全うして帰ってきたわれわれすべては、そのことを知っており、次のように安んじて言いうるのである。(78頁)
すなわち最もよき人々は帰ってこなかった。

死者たちの告白を受けて私たちはどのように生きるのか。

第二次世界大戦が終わって75年。この現代に私たちが「最もよき人々」として生きるとは、いったい何を意味するのだろう。

 

 

 

記憶を継承するということ"ヒロシマの声"~

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noteに書いた記事より。

NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか~生まれ変わった原爆資料館~」を見た。

 

被爆者の高齢化が進むことで、戦争の記憶をいかに後世に伝えるかが課題となっていく。それを受けて大規模なリニューアルを行った原爆資料館について番組で紹介されていた。

 

資料館は原爆投下直後のジオラマ被爆再現人形の展示をやめた。それについては実際のところ様々な議論があったようだ。そして、生き延びた人々が「あの日」について書いた絵を展示し、新たに外国人の被爆者についてのコーナーを設けた。原爆で亡くなったのは広島で生まれ育った人たちだけではない。従来の被爆者の原爆で亡くなった人々の遺品については、ただ並べるのではなく、遺品を提供した遺族の思いも伝えようとする工夫がされていた。

※やや脱線するが、『この世界の片隅で』(『この世界の片隅に』とは別の作品)では、沖縄の被爆者について取り上げられていた。

 

「記録」とともに「記憶」をいかにして継承していくか。それがこれからの多くの博物館(Museum)で課題となる。博物館はただ展示をするだけの場ではないからだ。博物館の主な機能は「調査・研究」「収集・保存」「展示・教育」だ。原爆資料館に入る前と入った後で、もし私たちの何かが変わったとしたら、それは「展示物による教育」が作用したということになる。原爆資料館はこれから先、単なる悲惨さ(死者の数やさ)の伝承ではなく、一人一人の尊厳ある命が奪われた悲劇の持つリアリティの継承をしていくのだろう。

 

ヒロシマの悲劇は8月6日だけではない。『この世界の片隅に』の映画版では、太平洋戦争が終わった直後に、ある人物が次のようなセリフを発する。

 

「明日も、明後日もあるんじゃけ」


被爆した人たちは、私たちと変わらない一人の人間であったし、原爆が落とされたあとも人々の人生は続いていった。それでも8月6日は流れ去らない。原爆で我が子をなくした母親は、自分が死ぬまで子のことを想っていたし、「あの日」についての絵を描いた人が、自身の強烈な体験にずっと悩み苦しんでいた。

 

原爆資料館核兵器の廃絶に貢献したか。残念ながら、核をめぐる世界の情勢は今なお厳しい。そして、「リアリズム」の世界では、戦争の「悲惨さ」を訴えることはあまり重視されない。

 

ただ、それでも。「リアリズム」ではくみ取れない、死者や残された人々の苦悩の「リアリティ」を感じることは大切なのではないか。

 

あの資料館を出た後、人々は死者への祈りを自ずとささげるのではないだろうか。

 

そして、それこそが、あの資料館の存在する意義なのではないだろうか。

 

文学者である岡真理は以下のような言葉を残している。

 アウシュヴィッツヒロシマ…。世界には、単なる地名以上の意味をもつ固有名というものがある。「ガザ」もまた、現代史に刻まれた、「人権の彼岸」を象徴する名だ。
 アウシュヴィッツ解放記念日に、八月六日に、毎年、繰り返し唱えられる、「このような悲劇は二度と繰り返さない」という誓いは、何を意味するのだろう?ガザで起きていることはホロコーストではない。核兵器が使われているわけでもない。だが、ホロコーストを、ヒロシマを可能にしたもの、すなわち他者の人間性の否定こそ、「ガザ」が意味するものだ。
 死者たちよ、安らかに眠ることなかれ。今なお繰り返され続ける過ちに無関心な、この世界を呪い続けよ。(京都新聞2008年11月27日(木)付)


死者たちへの関心がもたれなくなる時、 きっと「過ちは繰返」す。だからこそ、私たちはせめて8月だけでも、「あの日」、尊厳ある命を奪われた一人一人の死者に思いを馳せなければならない。

www6.nhk.or.jp

 

この世界の片隅で (岩波新書)

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夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)