傍らにいるということ
孔子の言行録は『論語』にまとめられており、彼の説いた思想はのちに儒教、やがて朱子学として発展していく。彼の思想は簡単にいうならば、「仁」や「礼」を為政者が身につけることで国を治めることができるようになるというものだ。
今では儒教=古くさい教えといったイメージがあるかもしれない。
日本での孔子の影響について振り返ってみると、福沢諭吉など幕末から活躍した人々にとっては儒教的な価値観から脱却して西洋的な合理的な考えを身につけることが喫緊の課題であった。彼らにとって朱子学(儒教)=旧態依然の教えであり、それは乗り越えられるべきものであった。
しかし、私たちは完全に儒教的な価値観を失ってはいない。目上の人への礼儀、敬語、年功序列などがそうだ。そうした価値観は私たちを拘束する教えであり、より合理的な社会のためには捨て去るべきものとされがちだ。
アメリカでは上司と部下の関係がオフィスを出るとフラットになる、それこそがあるべき人間関係なのだといった話がしばしば日本社会のあり方を批判するなかで取り上げられる。丸山真男の『日本の思想』のなか「『である』ことと『する』こと」でもそうした話が展開されていた(気がする)。
そうして私たちは孔子に対して礼儀にうるさいとか、保守的とか、権威主義的とか勝手なイメージを作り上げていく。しかし、『論語』を実際に読んでみるとそこでは人間味あふれる孔子が描かれている。
こんなエピソードがある。伯牛という弟子が病になったとき、孔子が窓から彼の手を取って悲しむというものだ。孔子は「おしまいだ。運命だねえ。こんな人でも病気にかかろうとは、こんな人でも病気にかかろうとは」と嘆く。
注目してほしいのは孔子が伯牛の手を取ったという部分だ。この箇所を読む私たちは、孔子が伯牛の手を触れたときの温度感を考えずにはいられない。そして弟子が病になったことに対して感情を隠さず表現するその様。そこには儒教の創始者としてではなく、病に苦しむ弟子の傍らにいる一人の人間として孔子が描かれている。
この箇所を読んで初めて、孔子が述べた仁という言葉の深さに触れることができた気がする。手と手が触れ合う時の温度感。死に瀕した人の傍らにいる時間の流れ。人と人が時と場を共にするこの感覚が、現代の社会ではどんどん捨象されている気がする。
オンライン会議やテレワークでは人と人との温度感を共有するのが難しい。もちろんそのようなことをしなくても「合理的に」仕事は進められる。しかし、そうした方向性を極限まで進めていったとき、果たして「人間」が働く意義は一体どのようなものになるのだろうか。そこでの人間とはどのような存在であるのだろうか。そうした問いを孔子は2500年前の地平線から私たちに投げかけているのかもしれない。