アマルティア・センの講演
アマルティア・セン(1935-)はインド生まれの経済学者として知られている。
彼は不平等をめぐる議論において、単なるモノ=財の分配が問題なのではなく、財を用いて自身が望むことを達成できる能力=ケイパビリティ(潜在能力)こそが問題であると主張した。SDGsの先駆者ともいえる人物である。
『貧困の克服 ―—アジア発展の鍵は何か』は彼が行った4つの講演をまとめたものである。経済や政治、人権、公共政策についてがテーマとなっている。
以下、重要と思われた点を整理しておく。
①「危機を超えて――アジアのための発展戦略――」
・アジアの経済発展を学ぶケーススタディとしての日本
⇒明治維新における基礎教育。教育の効果は生活の向上にとどまらず、経済の発展に影響を与えた。
※教育による人間的発展が結果的に経済発展につながる
・アジア経済危機の教訓
⇒経済が急成長するときは、さまざまな社会集団が利益の恩恵を享受するが、経済が下降するときには分裂が生じる
例:飢饉では社会の下層に位置する人々ほど影響を受ける
※GDPの平均といった数字の集計の分析だけではその事態は見えてこない
「インドネシア経済危機の犠牲者たちは、景気が上昇気流に乗っていた時には、民主主義に対してそれほど強い関心は抱いていなかったかもしれません。しかし、一部の人々が真っ逆さまに転落した時、民主主義的な制度が欠落していたためにその人たちの声は抑えられ、黙殺されました。民主主義がもたらす保護的な安全保障はそれが最も必要とされるときに、その欠如が人々に強く意識されるものなのです」(53-54頁)
②「人権とアジア的価値」
センは主に2つの点について反論している。
・民主主義において重要な概念である自由や寛容という考え方は、西欧には当てはまるがアジアにはなじまないという主張について。
⇒センはアショーカ王(古代インドマウリヤ朝の王、仏教に帰依した)の寛容についての考え方、アクバル大帝(ムガル帝国の皇帝、ムスリム)の、ヒンドゥー教に対する寛容さを挙げて反論している。
・経済発展のためには民主主義ではなく、中国やシンガポールなどの権威主義体制のほうが向いているという主張について。
⇒アフリカのボツワナを例に挙げて反論。
「市場システムが生み出す経済的インセンティヴだけに集中して、民主主義制度によって保障される政治的インセンティヴのほうを無視すると、非常に不安定な基本原則を選択することになります」(68頁)
③「普遍的価値としての民主主義」
・20世紀に起こった最も重要な出来事は何であるか?
⇒センは民主主義の台頭であると答えている。民主主義は、19世紀に主張されたようなヨーロッパにだけ適したものではなく、民主主義が普遍的な価値を持っているとセンは主張している。
・民主主義が普遍的価値であるという主張に反論する人がいる=民主主義は普遍的な価値ではない?
⇒「あるものが普遍的な価値を持つとみなされるために、すべての人々による普遍的な合意は必要ではない」(123頁)
センは例として2つの人物を取り上げている。
まず、ガンジーの非暴力について。
「マハトマ・ガンジーが非暴力の普遍的な価値について論じた時にも、世界中の人々がこの勝ちに従って、すでに行動しているといったのではありませんでした。そうではなくてむしろ、非暴力にはそれを普遍的な価値であるとみなすのにふさわしい理由があると、ガンジーは主張したのでした」(123頁)
続けて、詩人タゴールについて。
「詩人ラビンドラナート・タゴールが『心の自由』を普遍的な価値として論じたことについても同様にあてはまります。タゴールは、この主張がすべての人によってすでに受け入れられているというようにではなく、すべての人に受け入れられるべき十分な理由があると言ったのでした」(124頁)
民主主義も同様であるということだろう。
単なる経済発展だけでは不十分であり、すべての人の人権が尊重される体制としての民主主義が重要なのだ。中国の大躍進、スターリン体制下のソ連がなぜ間違いなのか。それは以下の言葉に集約されるだろう。
「発展とは、一人あたりのGNP(国民総生産)だけではなく、人間の自由と尊厳がもっと拡大されることにもかかわっているのです」(144頁)